モーツアルト初期交響曲連続演奏

アマデウス室内管弦楽団メンバーによる曲目解説

アマデウス室内管弦楽団は2007年に第20回となる定期演奏会回を迎えました。これを機に、モーツァルトの初期の作品に目を向け「交響曲第1番」からおおむね作曲順に連続して演奏しています。
この間の定期演奏会のパンフレットに掲載した団員の思いが込められた曲目解説をご紹介します。
(曲名をクリックまたはタップすると解説が表示されます。表記は掲載時のまま。)
交響曲第1番 変ホ長調 K.16

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日、オーストリアのザルツブルクで生まれました。父親は宮廷音楽家のレオポルド、 母親はアンナ・マリア。二人には7人の子供がいましたが、育ったのはモーツァルトと5歳上の姉ナンネルだけだったそうです。

モーツァルトが3歳のとき、ナンネルが習っていたチェンバロに興味を示し、じっと聞いていた彼は、やがて姉のレッスンが終わるとおもむろに弾きだし、 姉よりも上手に弾くばかりではなく、それには完全な和声がつけられていたということです。

やがて父レオポルドは、この天才児をナンネルとともに、ウィーン・パリ・そしてロンドンへの演奏旅行で披露したのです。 この交響曲第1番は、その演奏旅行でロンドンに滞在していたときに作曲されたものといわれています。それは、モーツァルトがまだ8歳のときのことです。 この作品には、父レオポルドの他、あの有名なヨハン・セバスティアン・バッハの息子のクリスティアン・バッハのイタリア的な作風の影響が強く出ているといわれています。 しかしながら、8歳にしてすでにモーツァルトの音楽は、並み居る人々を驚嘆させたのは間違いありません。

第1楽章:モルト・アレグロ 変ホ長調

モーツァルトの初期の交響曲は3つの楽章からなり、急–緩–急の楽章構成になっています。この第1楽章は非常に簡単なソナタ形式からできています。 第1主題は明瞭簡単なリズムですが、第2主題はいわゆる歌であり、各所にフォルテとピアノが交替して音楽が進んでいきます。

第2楽章:アンダンテ ハ短調

簡単な二部形式からできています。ほとんど全体にわたって弦楽器の三連符が貫かれ、低弦と管楽器によって歌が応答します。

第3楽章:プレスト 変ホ長調

リズミカルで活発なフィナーレのロンドです。この楽章は特にクリスティアン・バッハの影響が強く出ているといわれています。

交響曲第4番 ニ長調 K.19

いわずと知れた天才モーツァルト(1756年ザルツブルク生まれ~1791年ウィーン没)。モーツアルトの交響曲は彼の短い35年の全時期に渡って書かれています。 第1番の交響曲は8歳のときの作品であり、第4番・5番も9~10歳の時に作曲されたものです。 第36番「リンツ」は27歳の時の作品ですが、最後の交響曲である第41番「ジュピター」はその死の3年前の1788年に作曲されました。 (補足:この演奏会でモーツァルト作品は第4番、第5番、第36番を演奏しています。)

日本風に表現すれば小学校学童期の頃でしょうか、1763年から1769年にわたっての長い年月を、モーツァルト一家は旅行に費やしています。 前半の約3年半、ドイツ各地や、ベルギー、オランダ、フランス、イギリス、スイス各地への大旅行に、そして後半の1年半はウィーン及びその周辺へ出かけています。 この間モーツァルトは、各地で様々な音楽家やその活動に影響を受けめざましい成長を遂げます。旅そのものが彼の教育の場であり生活であったのでしょう。 特に彼が最も親しく師として仰ぎ影響を受けたのが、当時ロンドンで大活躍していたヨハン・クリスティアン・バッハでした。モーツァルトが交響曲の作曲を始めたのもロンドンです。 また、ザルツブルクへ戻ってからはミヒャエル・ハイドン、ウィーン旅行中はヨーゼフ・ハイドンなどから音楽を教えられました。その後、1769年から1774年の6年間のうち3回のイタリア旅行をしています。 精神形成期の彼の修学の地はイタリアだったのでしょう。生涯にわたるオペラへの熱情がこの時期に培われたであろうと考えられます。

なお、今回のプログラムは、交響曲第4番、36番「リンツ」、第5番の順での演奏ですが、ここでは年代を追って曲目のご紹介をさせていただきます。

交響曲第4番 ニ長調 K.19

1765年にイギリスのロンドン滞在中に作曲された、モーツァルトわずか9歳の時の作品です。イタリア式特徴を持つ「急・緩・急」の3つの楽章から出来ています。 第1楽章は当時の交響曲がファンファーレのような祝祭的であったことを物語っており、また第2、第3楽章にはバグパイプやヨーデル風のメロディが現れます。 オーケストラの編成はオーボエ2本、ホルン2本と弦楽器5部です。

第1楽章

アレグロ

第2楽章

アンダンテ

第3楽章

プレスト

交響曲第5番 変ロ長調 K.22

(交響曲第4番と共通の前書きがあります。併せてご覧ください。)


交響曲第5番 変ロ長調 K.22

1765年7月にイギリスを発ったモーツァルト一家は9月にオランダのハーグに到着しましたが、父親であるレオポルドの手紙によりますと、ここで姉のナンネルに続いてモーツァルトも大病に罹りました。 一ヶ月ほどの療養の後、12月中旬以降一気に書き上げたとされています。曲の作り方は第4番と同様のスタイルですが、ロンドン滞在中の交響曲よりもはるかに感情豊かで進歩が見られるといわれています。 オーケストラ編成は第4番と同様です。(補足:オーボエ2本、ホルン2本と弦楽器5部。)

第1楽章

アレグロ

第2楽章

アンダンテ

第3楽章

モルト・アレグロ

交響曲第6番 ヘ長調 K.43

1767年の9月から10月頃にウィーンで着手され、当時猛威を振るっていた天然痘から回復した後にオルミュッツで作曲されたと言われている。

1767年末以前に作曲されたモーツァルトの交響曲はどれも3楽章構成であったため、このK.43はモーツァルトがメヌエットを含む4楽章形式のスタイルを初めて導入した交響曲と言える。

第1楽章は冒頭の印象的なファンファーレと続く躍動的な主題を楽章全体へ展開している。

第2楽章は、旅行に出発する前の年の1767年春に作曲したラテン語によるオペラ『アポロとヒアキントゥス』第8曲目に基づき作曲されている。

第3楽章はこの時期に作曲されたモーツァルトの他の作品と比べて、かなりレガートなメヌエットであり、3連符の使い方が印象的である。

第4楽章は2つの部分が反復される2部形式となっており、弦楽器の書法がとても素晴らしい、また管楽器はその弦楽器をサポートする役目が与えられている。

オーケストラの編成も少々変わっており、通常弦楽器は5部(バイオリン1・2、ビオラ、チェロ、コントラバス)で編成されるが、 この作品は6部(バイオリン1・2、ビオラ1・2、チェロ、コントラバス)構成となっている。

また管楽器もこの時代の通常編成はオーボエ2本、ホルン2本であるが、第2楽章のみオーボエの代わりにフルート2本が使われている。

(補足)

第1楽章 Allegro、第2楽章 Andante、第3楽章 Menuetto、第4楽章 Allegro

交響曲第7番 ニ長調 K.45

1767年9月、秋の気配が漂い始めるころ、まだあどけなさの残る11歳のウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、生地ザルツブルクを離れ、家族とともに、第2回目のウィーン旅行にやってきました。 旅行といっても、観光に来たわけではありません。自分を売り込みに来ているのです。時はまだフランス革命前夜、音楽はまだ一部の限られた人たちのものでした。

幼いころからクラヴィーアやヴァイオリンを達者に弾きこなした彼は、ヨーロッパ各地でコンサートを開き、神童として大変話題になっていました。 第1回目のウィーン旅行では、マリア・テレジアの前で御前演奏を披露したり、パリではルイ15世に拝謁したりもしました。 音楽で身を立てるには、何より王侯貴族に気に入られ、宮廷に召し抱えてもらわなければなりません。 モーツアルトにとって旅行とは、自分の知名度をあげるためと、各地の貴族や宮廷の実力者とのコネを築くためのものにほかなりませんでした。

それにしても、今回のウィーン旅行は、特についていませんでした。町では天然痘が大流行し、売り込みのターゲットだったハプスブルク家の王女が急逝してしまったのです。 おまけに、あろうことかモーツァルト自身も天然痘に感染してしまい、幾日も生死の淵をさまようことになりました。

どうにかこうにか治癒したモーツァルトが、療養先から再びウィーンに戻ってきた1767年末から翌68年1月にかけて作曲されたのが、この交響曲第7番です。

旅行で各地を訪れるたびに、その土地の流儀で曲を書き、自身の経験を深めてきたモーツアルトでしたが、ここでは、それまで書いていた3楽章形式のシンフォニア(イタリア様式、またはザルツブルク様式) ではなく、当時ウィーンではやりの、メヌエット楽章を含む4楽章形式で、交響曲をしつらえました。病み上がりとはとても思えないほど明るく溌剌としていて、躍動感にあふれた佳曲です。 第2楽章では、特徴的な3連符の伴奏が2ndVln.に現れますが、第3楽章メヌエット、第4楽章でも3連符が効果的に使われています。

また、彼の交響曲としては初めてトランペットとティンパニが登場し、響きに花を添えています。

第1楽章 モルト・アレグロ

 ニ長調 4分の4拍子

第2楽章 アンダンテ

 ト長調 2分の2拍子

第3楽章 メヌエット

 ニ長調 4分の3拍子

第4楽章 モルト アレグロ

 ニ長調 2分の2拍子

交響曲第8番 ニ長調 K.48

ヴェルサイユ宮殿のルイ15世の前で天才ぶりを発揮し、「神童」との名をヨーロッパ中に広め、並みいる人々を驚嘆させた最初の演奏旅行から帰ったモーツァルト (1756年ザルツブルク生まれ–1791年ウィーンにて没)は、ザルツブルクで過ごした後、1767年9月には再びウィーンへの演奏旅行に出発しています。

この旅行中にもまた、活発な創作活動が展開され、交響曲第8番は1768年12月13日にウィーンにて作曲されました。この時、まだわずか11歳。 しかしながら、交響曲第1番を作曲したのは8歳といわれていますから、モーツァルトの頭の中はいったいどのようになっていたのかしら……などと考えても、それはかなわぬことでしょうけれど。 多分に、父レオポルドの熱心な教育、そして前古典派たちの作風をどんどん吸収していったモーツァルトの早熟さと柔軟さが、そうさせた所以ではないかと想像いたします。

第1楽章は祝祭の雰囲気が漂い、穏やかな緩徐楽章の第2楽章とトリオを含む舞曲風の第3楽章が続き、そして明るく快活な第4楽章で締めくくられています。

楽器編成:オーボエ2・ホルン2・トランペット2・ティンパニ・弦楽5部

第1楽章 アレグロ

 ニ長調 4分の3拍子 ソナタ形式

第2楽章 アンダンテ

 ト長調 4分の2拍子 二部形式

第3楽章 メヌエット

 ニ長調 4分の3拍子 トリオをともなう三部形式

第4楽章 モルト アレグロ

 ニ長調 8分の12拍子 ソナタ形式に近い二部形式

交響曲第9番 ハ長調 K.73

子ども時代のモーツアルト(1756年ザルツブルク生まれ–1791年ウィーンにて没)は、父レオポルドに連れられて、大きな旅行に何回か出かけています。

初めての演奏旅行は1763年から3年間ほどで、ミュンヘン・パリ・ロンドンを回りました。これが神童モーツァルトの名をヨーロッパ中に広めた最初の演奏旅行です。 10歳にも満たない年齢でしたが、この頃に最初の交響曲を書いています。

1766年にザルツブルクに帰国後、翌年8月には早くも次の演奏旅行地ウィーンに出発。そして二人の親子は1769年まで意欲的に音楽活動をします。この間、モーツァルトは前古典派の作風を学び、 トランペットやティンパニを入れた規模の大きな交響曲の作曲を行うようになります。交響曲第9番はこの時期の最後に書かれ、より華やかで明確さのある作品になっています。

ファンファーレ風の特徴を持つ第1楽章、フルートが唯一登場する美しいカンタービレの響きを持つ第2楽章、弦楽器のみのトリオを含む舞曲風の第3楽章が続き、 そして分散和音の主題が印象的な明るく弾むようなフィナーレの第4楽章で締めくくられています。

楽器編成:フルート2・オーボエ2・ホルン2・トランペット2・ティンパニ・弦楽5部

第1楽章 アレグロ

 ハ長調 4/4拍子

第2楽章 アンダンテ

 ヘ長調 2/4拍子

第3楽章 メヌエット

 ハ長調 3/4拍子

第4楽章 アレグロ モルト

 ハ長調 2/4拍子

交響曲第10番 ト長調 K.74

自筆譜最終楽章の末尾に「終了、神に感謝 Finis Laus Deo」とモーツアルト自身の筆跡で書かれており、完成にあたっての感謝(あるいは安堵)の意を表している。

冒頭には「(オペラ < ミトリダーテ > のための)序曲」と記載され、後に抹消されているが、記載した人物は筆跡から現在ではモーツアルト以外というのが有力である。

この作品はイタリア風序曲のスタイルで書かれており、第1楽章は反復なしのソナタ形式から再現部、小結尾を経て区切りなしに第2楽章へ突入する。

フィナーレはロンド(Rondeau)と記されており、この表記はフランス風コントルダンスの影響を受けていると思われる。また途中で現れるト短調のエキゾティックな響きは、 モーツァルトがトルコ音楽に影響を受けた初期の例である。

(補足)

第1楽章 Allegro、第2楽章 Andante、第3楽章 Allegro

交響曲第11番 ニ長調 K.84

1770年にモーツァルトはイタリアへの旅行へ出かけているが、その際に6曲の交響曲を作曲しており、この11番はイタリアのミラノあるいはボローニャで作曲されたその中の1曲とされている。 しかしウィーン楽友協会の写譜にはモーツァルトの作品とあるものの、ベルリン国立図書館の写譜の表紙には父レオポルトと記されており、 またディッタースドルフの作品ではないかという説も挙げられているなど、真偽のほどは不明である。

第1楽章 アレグロ

4小節からなる第1主題の上行する「問い」下降する「答え」の基本動機で構成されており、この形が2回反復されるのが特徴である。 さらに第2主題が副主題を伴って現れ、展開部ではさらに新しい主題が出現するといった豊富な主題提示が行われる。

第2楽章 アンダンテ

第1楽章のニ長調に対して通常の下属調ではなく上属調のイ長調が採用されている、大変珍しい楽章である。8小節からなる主題はオーボエから提示されるのも特徴の一つである。

第3楽章 アレグロ

三和音の動機で始まり第1主題が提示された後、弦楽器の3連符を経て流動的な旋律の第2主題へと展開する。 主題については分散和音型の旋律が多く使用され、モーツァルトのそれまでの特徴であった息の長い旋律とは対照的なものであり、オペラの影響を受けたとも考えられている。

交響曲第12番 ト長調 K.110

1769年12月から始まった1回目のイタリア旅行から帰った直後、ザルツブルクにて1771年7月頃に作曲を開始した。 楽譜の表紙にあるモーツァルトの名前には「Cavaliere(騎士)」と肩書きが付けられているが、これはイタリア旅行の最中にモーツァルトがローマ教皇から黄金の拍車勲章、あるいは黄金の騎士の勲位を 授与されたことに由来している。1771年の8月には2回目のイタリア旅行へ出発しており11月のミラノあるいは12月のブリクセンにおけるコンサートのために作られたと考えられる。

第1楽章 アレグロ

この楽章は単一の主題で構成されており、第2主題の冒頭の主題がやや形を変えた属調で再登場し、再びもとの姿に戻って提示部の結尾に現れている。 展開部は提示部の結尾で聴かれた下降音型を模倣的に扱っており、推移部の再現が展開部を思わせるように拡大されている。

第2楽章 アンダンテ

この楽章は特に内声部が念入りに仕上げられており、フランス的洗練さの背後にドイツ的職人気質が感じられる。 なおこの第2楽章のみ管楽器はフルートとファゴットが2本ずつ用いられているため、柔らかな響きの中にも華やかな雰囲気が醸し出されている。

第3楽章 メヌエット

この時期に多く見られるカノン書法で書かれているが、学問的なカノン書法を学問とは無関係な舞踏場のメヌエットへ適用することで、 舞曲をよりシンフォニックなものにしようとする1つの試みとみても良いかもしれない。

第4楽章 フィナーレ

2拍子の舞曲であり、ガボットないしコントルダンスのリズムが主題の基礎となっているのを感じることが出来る。中間部はト短調の2部構造となっておりエキゾチックな性格を帯びている。

交響曲ニ長調 K.111/120

この交響曲は当初「劇的セレナータ < アルバのアスカーニョ >」のための序曲として生まれ、後に交響曲に改編する際に新しく書き下ろされたフィナーレが付けられた。

原曲のセレナータは当時のオーストリア大公フェルディナンドと、イタリア・モデナの公女マリーア・ベアトリーチェ・リッチアルダの結婚を祝して作曲され、 1771年10月にイタリアのミラノで行われた初演は大成功を収めた。

また交響曲になる前の序曲時代のフィナーレには合唱曲が用意されており、規模は小さいものの、ベートーヴェンの第九交響曲を先取りしていたとも言える。

(補足)

第1楽章 Allegro assai、第2楽章 Andante grazioso、第3楽章 Finale:Presto

交響曲第16番ハ長調k.128もご覧ください。当時ミラノのある北イタリアはオーストリアが支配していて、ミラノ総督のフェルディナンド大公は女帝マリア・テレジアの皇子。

交響曲第13番 ヘ長調 K.112

モーツァルト(1756~1791)は、約35年間の人生の中で17回旅に出たとされています。6歳の時のミュンヘンへの旅に始まり、合計3700日以上を旅先で過ごしています。 短い生涯のほぼ1/3を旅していたことになります。各地で様々な作曲家や音楽家に接し、モーツァルトは大きな刺激を受け、変化の成長を続けたのです。 その中で、イタリアへは3度旅をし、通算2年以上過ごしています。音楽におけるイタリアの重要性がわかります。

さて、交響曲第13番には、表紙に「1771年11月2日、ミラノ」と書かれた自筆譜が存在しています。2度目のイタリア旅行、モーツァルト15歳の時の作品ということになります。 明確にイタリア趣味と言えるほどではないものの、イタリアの明るい太陽のもとで書かれた若きモーツァルトの溌剌とした作品です。

第1楽章

アレグロ、ヘ長調、4分の3拍子、ソナタ形式

第2楽章

アンダンテ、変ロ長調、4分の2拍子、ソナタ形式

第3楽章

メヌエット、ヘ長調、4分の3拍子、複合三部形式

第4楽章

モルト・アレグロ、ヘ長調、8分の3拍子、ロンド形式

交響曲第14番 イ長調 K.114

モーツァルトは、36年に満たない短い人生の、およそ3分の1近い10年以上を旅先で過ごしています。父レオポルトと各地を巡り「神童」ぶりを披露するとともに、先輩音楽家や各地の音楽に触れ、 自分の中に取り込んでいきました。1771年8月にも、モーツァルト父子は2回目のイタリア旅行に出かけ、年末の12月15日にザルツブルクに帰郷。その翌日、宮廷楽員でありながら旅に明け暮れる モーツァルト父子に対し寛大であったシュラッテンバッハ大司教が74歳の生涯を閉じました。交響曲第14番のスコアに1771年12月30日と完成した日付が記されているので、 大司教の死後2週間でこの交響曲が完成したわけですが、大司教の死との関連など作曲の動機は不明のようです。

ともあれ、この曲を始めとして1年足らずの間に、モーツァルトは8つの交響曲(第14番~21番)を書くことになります。ザルツブルク期の交響曲とも言われ、 それまでの「イタリア風」の交響曲とは違ったスタイルを模索するように進化させていきました。有名なモーツァルト研究者アルフレート・アインシュタイン(物理学者アインシュタインの従弟)は、 この時期のモーツァルトの交響曲について「増大するのは深化の兆候、楽器の役割がより大きな自由と個性に向かって変化していく兆候」を示すと評しています。 例えば、それまでの交響曲では第12番の2楽章でオーボエをフルートに持ち替える例はあるものの、基本的にオーボエとホルンが用いられてきました。 本日演奏する交響曲第14番では最初からフルートが効果的に用いられ、2楽章のみオーボエが用いられています。

第1楽章 Allegro moderato イ長調 2/2 ソナタ形式

冒頭から優美でチャーミングなメロディーが奏でられ、さらにフルートが加わって華やかさが加わります。弦楽器による絡み合うような第2種題の展開も魅力的です。

第2楽章 Andante ニ長調 3/4 ソナタ形式

夢の世界を描いているかのような、うっとりとするアンダンテ。この楽章ではフルートとホルンが休み、代わりにオーボエのみが用いられることで優雅な印象を生み出しているように思います。 フルート奏者がオーボエに持ち替えて演奏することが想定されていたようですが、本日は、当団オーボエ奏者の演奏をご堪能ください。

第3楽章 Menuetto イ長調–イ短調 3/4 複合三部形式

ここからフルートとホルンが再登場します。当初はトリオを持たないメヌエットが構想されていたようですが、気に入らなかったのか差し替えられたことがわかっています。 トリオは少し意外性のあるイ短調。モーツァルトが短調を用いた作品は「疾走する悲しみ」と表現されることがあります。トリオの旋律の背後で奏でられる三連符からは、 不安や悲しみが絶え間なく追ってくるように感じられます。

第4楽章 Molto allegro イ長調 2/4 ソナタ形式

4分音符3連発のフォルテで開始されるフィナーレ。まるでオペラの序曲のように、複数の旋律が次から次へと奏でられ、聴衆の心を沸き立たせるように颯爽と駆け抜けていき、 最後もフォルテの4分音符3連発。

交響曲第15番 ト長調 K.124

この曲の自筆譜には1772年2月21日と完成の日付が記されているそうです。昨年の演奏会で取り上げた14番は1771年12月30日と完成日が記されていますから、前作から1ヶ月半ほどで 作曲されたことになります。モーツァルトの誕生日は1756年1月27日ですから、16歳になったばかりの作品です。

作曲時期が近いこともあり、この作品は前作の14番と比較されることが多いようです。14番が、これまでとは異なる大きな変化(進化)を見せた作品と評価されていますが、 15番は前作よりやや後退した小規模な作品とみなされることが多いようです。形式的にはそうかもしれませんが、内容的には音楽の喜びに満ちた逸品だと個人的には思います。

第1楽章 アレグロ ト長調、4分の3拍子

冒頭に奏でられる四分音符を5つ並べた主題は、調やリズムも全く異なりますが前作14番の1楽章の主題と、同じような音の動きで作られています。 同じ主題を、極限まで単純化したようにも感じます。展開部はそれまでの作品よりも長く、充実したものになっています。

第2楽章 アンダンテ ハ長調、4分の2拍子

前作同様、夢見るようなアンダンテに、さらに優雅さが加わったような美しい楽章。ところが、これまでの作品に見られた管楽器の持ち替えもなく、弦合奏だけになったりもありません。

第3楽章 メヌエット(ト長調)–トリオ(ニ長調)、4分の3拍子

力強さが感じられるメヌエット。トリオは弦楽器だけになり、コントラストが際立ちます。

第4楽章 プレスト ト長調、4分の2拍子

冒頭が和音の三連打というのも前作14番との共通点です。この三連打はロンド主題のように繰り返されます。

交響曲第16番 ハ長調 K.128

(はじめに、同時に演奏したJ.A.ハッセの歌劇「ルッジェーロ」序曲の解説を一部紹介します。)

ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699–1783)は、ドイツのハンブルク近くの村で生まれ、20代の半ばにはイタリアに赴きナポリの歌劇場を中心に活躍します。

モーツァルトは少年時代に3度イタリア旅行をしていますが、この旅行の中でハッセと出会い様々な関わりを持ったようです。ミラノ総督フェルディナンド大公とモデナ公国の王女との婚礼に 当たって上演される祝典劇が、モーツァルトとハッセの2人に依頼されたのです。当時モーツァルトは15歳、ハッセは71歳でした。


交響曲第16番 ハ長調 K.128

ハッセとの競作を行った翌年の1772年、モーツァルト(1756–1791)は本日の演奏会で取り上げる交響曲第16番と17,18番を5月に、19~21番を7月に作曲しています。2ヶ月で6曲を集中的に 作曲した理由は明確ではありませんが、4月に大司教ヒエロニムス・コロレドがザルツブルクの新しい領主として赴任していることから、モーツァルトが宮廷音楽家としての実力を示そうとしたのかもしれません。

● 第1楽章は単にアレグロではなく、アレグロ・マエストーソと記されています。マエストーソはイタリア語で「堂々とした、威厳に満ちた」という意味です。冒頭の和音に続き、 三連符が連続する旋律が展開します。マエストーソという言葉から連想される重々しさではなく、躍動的に曲は進みます。そして展開部以降は意表を突くような転調が連続します。
● 第2楽章はアンダンテ・グラチオーソ。グラチオーソはイタリア語で「優美な、上品な」という意味です。弦楽器のみで、各パートが対話しているような室内楽的な楽章です。
● 4楽章の交響曲ならば3楽章はメヌエットが来るところですが、この曲の第3楽章は8分の6拍子のアレグロ。軽やかに展開し、後半にホルンが奏でる狩りの音楽のような部分が印象的です。

(補足)

交響曲ニ長調k.111/120も併せてご覧ください。

交響曲 K.135「ルーチョ・シッラ(またはルチオ・シラ、シルラ)」

この作品はモーツァルトが1771年3月のイタリア旅行の時に作曲を依頼され、2年後の謝肉祭でミラノ宮廷劇場にて上演されたオペラの序曲として作られたものである。

当時のオペラの音楽は、歌手及び演劇を引き立たせるためのものであったのに対し、この作品はかなり器楽的な構成が豊かで、まるで歌唱を伴った公共作品のように仕上がっているため、 当時の観客や聴衆からの評価は低かったようである。

その後ミラノをはじめイタリア各都市からオペラの作曲依頼は途絶えてしまったこともあり、モーツァルトのイタリアにおける最後のオペラとなったものである。

しかし20世紀に入り、オカールやランドンといったモーツァルト研究家達がその価値を見直しており、特にオーケストレーションの完成度の高さについて絶賛されている。

(補足)

第1楽章 Molto Allegro、第2楽章 Andante、第3楽章 Molto Allegro